2014年5月31日土曜日

詩人は日常のことばの惰性を打破するために存在する

今回も問題集からの抜粋です。

詩人は日常のことばの惰性を打破し、ことばの違いを新鮮にするために存在する。
そして、詩人のみならず、我々も常にことばによってとらえられた内容をとらえなおす
ような「言語創造」の営みを常に行っている。

前回に引き続きことばの話。
ことばは実生活に置き換えて考えやすいから読みやすくていいね。

ところで、この要約の中で「惰性」という言葉が使われていますが、意味はご存知ですか?

辞書を引くと「これまでの習慣や勢い」と出てきます。

なので、
いままで習慣で使っていた言葉に別の意味を与えるのが詩人の役割で、
それを私たちは日常的にもやっている

ということになります。

例えば、あれかな。「リア充」とかはそれにあてはまるのかな。
「リアルが充実している」ってことだけど、これお母さんにいうと伝わらないんだよね。
お母さん世代の人間は「リアル」っていうことばが「日常生活」っていうことを表すこと自体、
あまりぴんとこないみたい。

私が高校生の時は、「いまの男の人リアルにかっこよかった~」見たいな感じで
「リアル」を「本当に」とかって意味でも使ってたけど、最近はあんまり聞かない気がする。

realを辞書で引くと大体こんな感じ・・・
1 ほんとうの,真の;実質的な,文字どおりの;本物の,真正の
2 現実の,実存する,実際の
3 〈人物の(描写などが)〉真に迫った,リアルな
4 哲学実存する;実在的な.
5 不動産の
6 光学実像の
7 数学実数値の;実数を用いた

だから「リア充」って言葉は確かに、「惰性を打破し、新鮮味を与えている」気がします。

最近だと、大学生がしきりに言う「ワンチャン」とかもそれにあてはまるんだろうね。

誰が使い始めたのか、きっかけはネットなんだろうけど、
そう考えると何気なく使った言葉がここまで定着するのってすごいよね。

2014年5月30日金曜日

言語表現は誤解を生むこともある

問題集の中の1つの評論文です。

私たちは普段言葉を使ってコミュニケーションをとっているが、
言語表現を重ねれば重ねるほど誤解が生まれることもある

というのが今回読んだ文章の要約です。
その具体例としては、高校生になった息子と父親の例が挙げられていました。

確かに、言葉はコミュニケーションを円滑に運ぶこともあれば、
思わぬ誤解につながることもあるよね。

私もいままでたくさん言葉で失敗してきたし、
最近この塾を卒業したスタッフTさんもそれが原因で最近苦労したようです。

Tさんは、新しい人間関係を作る際に誤解が生まれたようだけど、
この文章のように近い人間関係のときも、こじれることが多い。
お互いに「相手はきっとわかってくれる」と思っているからこそ、
実際に伝わっていない時にイライラしたりするんだよね。

どんなときも、誰が相手でも、丁寧に接することを心がけたいね。

2014年5月29日木曜日

卒業生との対話

5月に入ってから集中的に卒業生から会いたいと連絡が来ます。
嬉しいこと。

みんなそれぞれの生活を楽しみながら様々な苦悩にぶつかっているようです。

小学校も中学校ももちろん高校もそうだけど、
大学生も結構学年ごとに、その人のカラーが分れていくような気がします。

特に3年から4年にかけて、大人びる子が多くてびっくりする。
きっと社会に出るっていう1つの区切りが見えてきたときに、
自分と向き合うタイミングになるからなんでしょうね。



そういえば、昨年の日本の大学進学率は、47%ほどだそうです。
http://benesse.jp/blog/20130909/p2.html

この数字が多いのか、少ないのか、いいのか、悪いのかは、私にはよくわからないけど、
19~22歳という多感な時期に、自分のやりたいことに多くの時間を費やせる大学生の生活は、
実はものすごく貴重な時間なのではないかと思います。

その時間を買ってくれているご両親にまず感謝しながら、
せっかく買った大事な4年間、思い切り楽しんでほしい。

そして、これは私が在学当時に学部長が言っていた言葉なんだけど、
大学に行くことだけでなく、時には大学から出る時間を大事にしてほしいと思います。

2014年5月28日水曜日

人の話が聞けるようになると、問題が解けるようになる?

今日のあつしくん(仮名)。

2つ文章を読んだうち、1つが41点。1つが50点。(もちろん50点満点です。笑)

いやぁ、成長したなぁ。
次回から1つ上の問題集に移るから今日はそういう意味では
節目の日だったんだけど、とてもいい節目になりました。

前回のあつしくん(仮名)日記にも書いた
(http://logosies-japanese.blogspot.jp/2014/05/blog-post_23.html)
けど、人の話を聞けるようになるということは、
問題も解けるようになることにつながるのかもしれないと思いました。

出題者だって人だから。
出題者にもいろんな人がいるけど、
問題用紙の向こうにいる人を使っている言葉から想像して、
その気持ちを組んで、その思考にあわせて解答を作ってあげる。

自分が話すよりもまず、相手が何を聞いているのかに目を向ける。

当然のことなんだけど、
意外と自分の主張ばかりに目が向いてしまう人は多いんだよね。
この視点は、現代文・小論文のみならず、
日常生活でも重要な視点なのではないかと思います。

あなたは先生の話を聞けていますか?


今日は体調不良で欠席の生徒が一人。
私もおととい久しぶりに体調を崩しました。
季節の変わり目なので、たまにはゆっくり休んでね。

2014年5月25日日曜日

小論文環境情報学部サブテキスト2―東大09

これも前回の記事同様、環境情報のサブテキストです。
抽象的な話をしていますが、使っていることばが平易なものが多く、理解はしやすい文章ではないかと思います。

●言語がないと直接的な体の表現をするしかないため、言語は生活世界を拡大しているといえる
言語があることで私たちは、自分が経験している世界だけでなく、誰かが経験している世界、
誰も経験していなくてもありえる世界、かつてあった世界、未来にある世界を疑似体験できる。

●しかし、言語は私たちの見方を拘束する役割もする
日本には魚が豊富だから、魚の名前がたくさんある。
アジ・サバ・マグロ…と同じような魚に名前をつけることでそれぞれの魚を区別している。
一つ一つに名前がなければ、違う魚を違うものとは認識できず、区別ができない。
あるいは、日本語では羊には区別がない。
外国で細かく区別していたとしても、私たちにはそれは羊にしか見えない。

●現在の社会は言語による間接経験(情報経験)が直接経験よりも多い社会である
情報経験は直接経験よりも不確かで実感が伴わないものであるから、
直接経験と間接経験を行き来するような感覚を深めることが必要である。

言語の話から最終的には、現在の世界を経験するあり方について考えさせる課題文と出題でした。

私はやっぱり、直接経験に勝るものはないと思う。「言う」と「やる」って全然違いすぎて…。
言葉で「いう」のは本当に簡単だけど、実際に「やる」のは本当に大変。

だけど、言葉の間接経験も本当に大事だよね。
いまここにないものを、あるように感じられる想像力。
想像できないものは実際にやることはできないから。

だからこの2つの経験を行き来するような経験が必要だっていう筆者の主張はよくわかる。

スポーツしている時とか、楽器を演奏している時に、私はこれを強烈に意識するような気がするな。

2014年5月24日土曜日

小論文環境情報学部サブテキスト1―慶應文学部12の要約

今回は環境情報学部のサブテキストの文学部12を読みました。
インタビュー記事なので長いですが文章は難なく読み進めることができます。
私が大事だと思ったところをまとめるとこの2点です。

●日本語が「国語」になることが出来たのは、奇跡のようなことだった。
日本語という「国語」は翻訳と言う行為を通じて生まれた。
この「国語」によって、古典(近代文学)を読む教育ができること、
そもそも教育するにあたる古典が存在していること自体、とても幸せなことである。

●最も危惧しているのは「娯楽以上の日本語(=国語としての日本語)」が生き残れるかどうか。
日本語は、英語が支配的な言語になったことと無関係なところで貧しくなってしまった。
その原因は、骨のある密度の高い近代文学を読ませなくなったことだと筆者は結論づけている。
近代文学を読めないことで、良質な本が読み継がれなくなり、
それにより文化の継承が行われなくなってしまうこと、
知的にも感性的にも貧しくなってしまうことを危惧している。

この話は私にとっても、とても耳に痛い話です。
私は教育学部国語国文学科の出身なので、まさにこの文章を執筆した筆者のようなことを考えなければならない立場でした。
でも大学生当時の私の近代文学を読んだ印象は…「つらい」。
谷崎潤一郎や室生犀星は読めたけど、田山花袋とかつらかったなぁ。
なんというか、心の中の葛藤がとても多くて。
芽生えている「自己」をどう扱っていくのかを描写しているものが多い印象です。

でも、確かにあのよみづらい文章を読んだことは、今の私にはなんとなく生きているように思います。
読みにくい文章に耐える経験。自分の経験には置き換えにくい世界を言葉から予想する練習には格好の教材だなぁと。


もう一度近代文学を読み直す必要があると思いました。(いまなら…よめるかなぁ)

2014年5月23日金曜日

聞くことと話すことのバランス


人の話を聞く、相手の話を聞きだす、というのは、実は少し難しい。

ただ文字通り「聞く」だけではだめ。

なぜなら、話をしている人が「自分は話を聞いてもらっている」という感覚をもたなければ、それは「話を聞いてあげた」ことにはならないから。

ついつい、「~してあげた」という言葉を使っちゃうけど、「~してもらった」と相手が感じることの方が重要で。
「私」は「私の周りの人」によって規定される。

話を聞いてもらったと決めるのは、相手だと思う。


ところで、最近あつしくん(仮名)は、人の話が聞けるようになったと思う。

自分の想いや経験を伝える前に、まずは相手がいっている言葉に耳を傾け、「そういう考え方もあるかもしれない」と受け入れる。

それができると、自分が抱いていた考えが別の視点から見えるようになる。
そして、自分がいままでやってきたことがある点では正しくて、ある点では正しくなかったと分析できるようになる。

実はそういった「自分を知って、変えていく」過程が、受験にはとても必要なことなのではないかと思う金曜日の午後でした。

2014年5月22日木曜日

慶應法学部続き

ちょこっと要約(2)

現代人が、「政治的空間としての<公共空間>」ではなく「社会という保護された空間」にとどまることの問題点は、自分の発言に責任を持たないことから生じる他者に対する無関心と、他者を信頼できないことで自分自身の中に生じる不信感・不安感である。

これを現代社会はセキュリティーで解決しようとしているが、自分の発言に責任や覚悟をもたずに世界に属そうとしていることに議論の焦点を置くべきである。




そういえば、昔は、村八分っていうのがあった。村八分は、村社会で掟や秩序を破った者に対して課される制裁行為のことで、江戸時代ではこれが発動されると事実上生活ができなくなったみたい。
どんな制度にも、長所短所はあるんだろうけど、この制度は自分たちで村っていう公共空間を守ろうっていう気迫がある気がする。いまは、自分で判断する機会がすごく減って、警察とかの公権力に任せてる。本当は自分たちで対処できたらいいよね。

2014年5月21日水曜日

慶應大学法学部(1)

ちょこっと要約
「政治的空間としての<公共空間>」とは、一言でいえば「自分の発言に責任と覚悟をもたなければならない空間」である。
「政治的空間としての<公共空間>」は、古代には存在していたが、現代には存在していない。現代人が属しているのは、公共空間でも私的空間でもなく、「社会という保護された空間」だ。
古代人は、「政治的空間としての<公共空間>」に属し、その中で他人が嫌がらないことを進んでしていた。なぜなら、そうして他者ではなく自分だけができることを進んですることで、自分の個性を発揮できたからである。



この文章、「政治的空間としての<公共空間>」っていう言葉の定義をしてないからちょっとわかりにくかったなぁ。

けど、ちょっと我慢して読み進めると、ぼんやりわかってくる。

問題文の具体例に出てきた死刑の話、つまり、現代人が保護された空間にいて、その空間からやんややんやと文句を言う図は、日常的にもよくある話だと思った。

クラスで文化祭実行委員が決めたことに後から文句言うとか、私の高校時代にはよくあったなぁ。
クラスの中のまじめな子がお化け屋敷の案を出してくれて、でも、その案に対して文句だけいう人が必ずいるんだよね。
内装が面倒だとか、お化けの役はやりたくないとか。
反論を言う子が、代替案を出してくれるならいいけど、そういう訳でもない。
その子は自分の発言に責任を持つ公共空間の外、つまり保護された空間から発言してるんだよね。
本当はお化け屋敷が嫌なら、別の案を出す。自分のアイデアがないなら、黙って従うしかないよね。
そうじゃないと、自分の発言に責任と覚悟を持つことにならない。
文句をいうだけなら誰でも出来るもんね。実際にやることの方がいうことよりも数百倍たいへん。

文章中には書いてなくて授業中に議論になってたけど、いまはここにインターネット、特にツイッターが入ってきてるからもう少し状況が複雑になってる感じがするね。


ツイッターは公共空間っていえるのかな。

2014年5月17日土曜日

個性は煽られない?

昨日、あつしくん(仮名)と読んだ文章は、大体こんな感じでした。


最近の子供たちは、自らの生理的な感覚を重視するため、自己肯定感が不安定である。
なぜなら、それが社会的な根拠によって支えられた肯定感ではないからである。
だから、身近な他者からの承認を欲しがる。


例えば、「大学に行けばいい会社に入れる」と言われていた時代は、大学に行くことそのものが「世間的に見ていいこと」で、それによって社会的な根拠が得られる。だから自己肯定も、社会的な根拠を基にできるってことだよね。「僕、いい大学入っていい会社入ったから、すごい人♪」的な。

でも、最近は、大学に行ったからといっていい会社に入る保証があるわけではないし、グローバル化で優秀な中国人が日本に入ってきてる。大きな会社が経営破たんすることもまれなケースではなくなってきてる。「いい大学=いい会社=すごい人=安全」の図式が崩れてきてる。

そうなると、社会的な根拠が薄くなるから、身近な他者の承認で自己肯定感を埋めるしかなくなっちゃう。だから友達との関係も重くなる。ラインを1日中やることが大切になる。そうしないと、自分の承認が得られなくて、自己承認ができなくなるから。


この文章のタイトルは「個性を煽られる子どもたち」。
だから、きっと筆者は、そうやって他者からの承認を得ることで自己肯定をするしかない子どもたちを擁護し、個性を煽ろうとする大人たちを批判していると取れる。

でもあつしくん(仮名)はとても素直で、「個性がない子どもたちが悪い」と言うふうに解釈してた。
これこそきっと、「個性を持て」と小中高で言われ続けた弊害かもしれないね。



それにしても、あつしくん(仮名)。文章を読んで、読めるところと読めないところがはっきりしてきた。
これってすごい進歩。「なんとなく」で読んでいる時は、どの部分がわかっていて、どの部分がわかってないかがわからないから。そうすると、緩急つけて読むことができないし、自分がどの部分が読めていないかがわからない。

それが急に数字には現れないけど、毎回少しずつ変化しているあつしくん(仮名)の次の変化が楽しみな今日この頃です。

2014年5月15日木曜日

今日のあつしくん:段落ごとの要約◎文章全体の要約×

今日からあつしくん(仮名)と一緒に行っている授業の中で私が感じたことを日記にまとめていこうと思います。自分がやってることとか考えることって書かなきゃ忘れちゃうからさぁ。

昨日あつしくん(仮名)と呼んだ文章は2つ。
言葉の話と旅の話。
あつしくん(仮名)は言葉の話にとても手こずってました。
というか…読めてなかった~。

文章の内容は、
コミュニティが同質な環境にある場合には表現は簡単に済むんだけど、それって実は相手に失礼なことだから、コミュニティが異質な場合には気を付けなさいよ
って話。

例えばこの話を授業中に出てきた具体例に置き換えると、
私の上司である塾長が私に「辻ちゃん、国語よろしく(にんまり)!」っていったとき、
私にはすぐにそれが「あつしくん(仮名)の国語をなんとかして(あせり)!」ってことなんだってわかる。
まぁ、まいにちあつしくん(仮名)の話してるし、昨日もそのミーティングしたしね。

でも、もし最近講師として入ってきた高橋先生が同じことを塾長にいわれたら?
「国語よろしく」って、
・あつしくん(仮名)の国語をどうにかするのか
・国語の新規入塾者を増やすためになにかをするのか
・過去問の研究をするのか
…なにから手をつけたらいいのかわかんな~い(;_;)ってなる。

それで、高橋君は一生懸命一人でその言葉の意味を考えて考えて・・・・挫折するorz

だから「よろしく」って言葉は、丁寧に見えて相手に考えさせる依頼の言葉になっちゃうこともあるから、相手に考えさせちゃいけないよ。気い付けなさいよ。ってただそれだけの話。

でも、あつしくん(仮名)は、文章中の筆者が使った具体例が、外国で感じたことだったもんだから、「日本語」と「外国語」の枠で考え過ぎちゃってたんだよね。

段落ごとの要約はだいぶよくなったんだけど、文章全体で何がいいたいのか、筆者が何をいいたいためにこの具体例を出してきたのか、それが理解できてないかんじ。

いや、でも、これでもかなり一歩一歩よくなってるんだけどね(^^)
最初は段落ごとの要約も危うかったしね。


もう一歩だ!あつしくん(仮名)!

2011年東大後期「公共空間とは何か」

最近研修として、塾内で毎週土曜日に実施されている小論文講座に参加しています。
せっかく取り組むわけだし、備忘録として読んだ文章をこのブログに書きとめていこうと思います。

4月26日小論文の課題は、慶應法学部。
そのサブテキストとしてあげられていた東大後期2011年の課題文を読んでみました。
内容は大体こんなかんじ。

<公共空間>とは、一般的には美術館や映画館を指し、<私的空間>とは、個室やお茶の間を指すと理解されるが、現代における<公共空間>とはなにか?そもそも存在するのか?

この文章での結論は、現代における<公共空間>は存在しない、である。筆者は<公共空間>の理想を古代ギリシア時代においているが、この理想の<公共空間>は、近代以降<社会的なものの台頭>と「家」への関心の高まりの中で衰退していくようだ。

現代人が属しているのは、<公的空間>でも<私的空間>でもない第三の空間である。自分の発言に責任を負わずに済むこの空間にいることを本当に許していいのか、ということをアレントは問題にしている。

私的には、慶應法学部の文章の方がよみやすいかなぁ。理由は、具体例がたくさんあるから。この東大の文章は言葉の定義が多くて、筆者と読み手とで解釈に齟齬がありそうで怖い。慶應の文章を読んでからだからこそ、「ああ、こういうことかな」って思ったけど。

あと少し不親切だなぁと思ったのは、本文で2回も書いてある「近代以降<社会的なものの台頭>と「家」への関心の高まりの中で<公共空間>が衰退していく」という言及について、なぜ近代以降<社会的なものの台頭>と「家」への関心の高まりがあったのか、そしてそれが公共空間の衰退とどう関係があるのかについて、抜粋文の中に説明がないことかな。

筆者がこんなにアレントを引用しているなら、その説明はあるべきだと思ったんだけど・・・これは私が現代文を教えているから感じることなんだね。


これを考えるのが小論文を使って受験する受験生のお仕事みたいです。

2014年5月14日水曜日

2014年慶應法学部論述力「ケアの倫理」と「正義の倫理」

ロゴスIES大藤です、辻先生おじゃまします。

今週の慶應小論文クラスの課題は2010年総合政策の介護労働。
サブテキストは今年2014年慶應法学部の小論(論述)。

色んな学部の小論文や早稲田、東大、センターなどの現代文のネタがとっても役立ちます。そんなわけで今週のサブテキストは慶應法。


市民は自己中心的な生活や私的利益の追求という個別性を超越し、、
というのが市民の特性らしい。わがまま言わないで共通善をみんなで探ろうっていうことね。
で、面白いのがその対極がなんと家族だと。

家族とは個別具体的ニーズが満たされるべき場所であり、(中略)公的領域が想定する徳や態度とは全く異なる論理がそこで働いているとされる
確かに。家族にはわがままに接してる。(でも塾でも個別具体的ニーズを満たしたり満たされたりしている気がするが、、、(笑)しかも個別ニーズ=わがままという図式になってしまっている(苦笑)


そして女性が家事や教育、介護をしているのは

自由意志で行為を選択し、つねに自らが要求するニーズを「自分のもの」と確信できるような主体を前提にしているかぎり、(かなり略)自由に選択した結果のようにみえるのである。
確かに近代の価値観は自由意志の尊重。みんな自分の好きなように生きながら、まあ共通善を探そうぜって感じ。だから家族のことをやることも本当は自由意思じゃないかもしれないけど、
道徳的問いかけは非常に重くその場を離れることができない。そりゃそうだ、赤ちゃんとかじっちゃんばっちゃんおいて旅に出れない。


この感じ。介護労働と似てます。教育とも似ています。
最近ありましたね、入学式をおやすみした先生の報道。賛否両論。
市民としての自由意思を尊重するのか、道徳的問いかけを行うのか。

私個人的には自由とか意思とか道徳とかうさんくさい。義理人情くらいに程よく適当なものをそれぞれの人が大切にできたらいいのかと。うーん違うかな。どうかなー。

私の仕事

あなたは、自分のいまの人生を「運命」の結果だと思っているだろうか。
それとも「選択」してきた結果だと思っているだろうか。

幸せに生きるポイントは、今の自分の人生はすべて自分の「選択」の集積だと思うことである。
なぜならそう考えることで自分の人生に「責任」が持てるからだ。

ロゴスIESの現代文の特徴は、自分の「選択」に自覚的になることから始める。
普段私たちは、日常生活の中で様々な事柄に関して無自覚に選択している。
休憩中に食べるおにぎりの味。
帰宅する時間。
帰る時に乗る電車。
電車で座る座席。
授業中に使用するペン。

日々無自覚に選ぶ選択に自覚的になったときに、自分の癖が見えてこないだろうか。
なぜおにぎりの味は昆布ではなく梅なのか。
なぜ急行ではなく各駅停車に乗るのか。
なぜ端の席に座るのか。

これらの選択は、普段時間を共にしている友人と同じこともあるかもしれない。
でも全く同じ選択をしていることはまずないだろう。
それは、その一つ一つの選択に自分の思考の癖が現れているからである。

ロゴスIESの現代文では、その点に注目する。
なぜ「ア」ではなく「イ」を選んだのか。
本文のどの部分を根拠にしたのか。
本文はどのように解釈したのか。
選択肢は全て吟味したのか。
勘で選んで間違えたのか、考えて間違えたのか。

試験本番は、自分1人で臨む。
試験本番時に、あるいは自分で問題を解いているときに、自分がどのように選択をしているのかを見つめる。
その選択はどのような回路で行ったかを見つめる。
そしてその回路は、志望校が求める解にたどり着くことができるのかを見つめる。
それらの作業を授業では行う。

現代文の問題を勘で解いてもいいだろう。なんとなくで当って合格する場合もあるだろう。
でも確実に合格したいのならば、自分の思考の癖は自分で知っておく必要がある。

あなたの「選択」の道筋を聞き、それが効率的かそうでないかをアドバイスすることが、私の仕事である。

講師 高橋の言葉遊び タイトル編

ロゴスIES講師、メディア担当の高橋です。
この度、ロゴスIESの主力授業の一つ、国語に関する情報を提供するブログを立ち上げることになりました!

しかし、それに際してある問題が...
というのも、このブログタイトル!これをどうしようか考えてます。
と、いうわけでタイトル案を箇条書きにしてみました!

さて辻先生がどれを選ぶのか!?
答えは、、!

・国語能力向上委員会inロゴス
・あなたの日本語を早慶小論レベルに
・国語虎の巻
・現代国語攻略法
・国語力あります!
・国語力余ってます!
・毎日が国語日和
・国語漬け
・俺の国語
・国語って
・国語小論
・国語の日
・毎日が国語デー
・新現代型国語塾
・未来型
・そうとなりゃ国語
・虎穴に入らずんば国語
・ところで国語
・最近は国語
・東京タワー、僕とおかんと時々国語
・国語ですが
・国語だって
・国語しか
・国語でもって
・やらしい国語
・たおやかな国語
・ニクいぜ、国語
・「国語」と君はつぶやいた
・国語さん
・国語さんリボーン
・僕だって国語
・君だって国語
・それいけ国語パンマン
・それいけアンパンマン 国語
・5日で激やせ国語
・半径30センチ以内の国語
・プチ国語
・夕ご飯何がいい?ってきいて一番めんどくさいのって「何でもいい」だよね国語
・国語 スペイン産オリーブを添えて
・国語をあめ色になるまで炒めます
・国語 シーズン2
・そして町娘は一路北へ向うのであった、の国語
・キリンさんが好きです、でも国語の方がもっと好きです
・国語さんがいいね押しました
・国語民族
・国語民族大移動
・国語民族の終焉
・国語民族の血を継ぐもの現る
・国語ジェーン
・国語の海岸物語
・そんな国語にだまされて
・勝手にシンドバッ国語
・サザン大好きブログ