2014年6月19日木曜日

頭で考えていることと、言葉で伝えること

昨日のあつしくん(仮名)。

頭の中で考えていることを文字にしてくれる機械があったらいいのに、
と授業中にぼやいていました。

確かにそんな機械があったら便利だよね。


でも、実は、私はそんな機械がもし本当にできてしまったら、
人間の思考力(考える力)と表現力(自分の考えたことを伝える力)は
衰えてしまうのではないかと思います。

人は頭の中で考えるけど、
自分の頭の中で考えていることを言葉にしなければ、
相手に思いを伝えることはできない。

いくら頭の中でものすごく素晴らしい考えを持っていたとしても、
それを伝える言葉がなければ、
その言葉を受け取る相手が言葉を解釈する力を持たなければ、
相手に思いを伝えることもできない。
相手の想いを受け取ることもできない。
私たちが「伝わった」と思うことも、
どこまでも自分の勘違いかもしれない。

私はそのために「国語」を学ぶ必要があるのではないかと思います。

自分の頭の中の考えと、表現する言葉を一致させる作業を、受験問題を通してやってみる。

よく「分かっているのに書けないんだよな~」とぼやいている生徒を目にしますが、
本当に分かっていれば書けるはず。
人に説明できないということは、どこか自分で消化しきれていない部分があって、
書けないということは、整理しきれていない部分があるということを
忘れないで欲しいと思います。

2014年6月18日水曜日

<われ>と<われわれ>

今日も問題集から。


私たちは本来、<われ>の一人として、自覚を持ち、責任感をもち、行動するはずなのに、
都会の人間ほど<われわれ>の中に埋没し、責任感を持たなくなる。
なぜなら<われわれ>とは<われ>を匿名化させるものだからだ。


この文章も、前に読んだ慶應法学部や東大とリンクします。
田舎では、顔なじみの人がたくさんいるから、下手なこともできないけど、
都会では、隣の人の顔すら知らないなんてこと、ざらにあるもんね。
そうなると、誰かに責任をおしつけたり、悪いことをすることも簡単にできちゃう。

ロゴスでも田舎住まいを経験したTさんがいましたが、その方の話で印象的だったのは、
ゴミをちゃんと分別しないと、周りに白い目で見られること。
東京ではあまり見られないことだよね。

2014年6月13日金曜日

「高度技術社会」を支えているもの


今回も問題集からです。


現在の「高度技術社会」を支えている精神的基礎の
1つは、競争心。1つは、「不快」を避ける心である。
今の社会は「不快」の源そのものを追放しようとする結果、
「不快」のない状態=「安楽」を優先的価値として追求することになった。
しかし、これは「不快」の対立概念としての「安楽」ではなく、
本来の「安楽」ではない状態、「不快」のない状態を指している。
そしてその「安楽」を他の全ての価値よりも中心に置くと、
「安楽」の狂おしい追及と、「安楽」喪失へのいらだった不安によって
心中が満たされてしまう。


これは、なんか、前に読んだ慶應の法学部と近い感じがしました。
あれの後半は、不安を防犯カメラで解決しようとする話だった。
不安を技術で解決しようと思うと、うまくいかないんだよね。
それは、不安がなくならないことが不安になっちゃうから。

本当に私たちが目指すべきなのは不安がなくなった状態なのか?

犯罪がない、戦争がない、治安が悪くない
というよりも
家族がいて、おいしいごはんが食べれて、あたたかいお布団で寝れる
ことが安心で快適なのではないか?

ということだよね。

不安の反対の安心≠不安がない状態
というお話でした。

慶應でも問題集でもある大学の内部試験でも、このテーマは見ました。
割と出てくるテーマなのかも。

2014年6月12日木曜日

問題を解くときは、問題文に戻るのがいいのでしょうか?

一週間ぶりになってしまいました。
雨がしとしと。体調も崩しやすいですね。

タイトルは、昨日あつしくん(仮名)と議論になったことでした。

結論から言えば、私は問題を解くときは、問題文に戻った方がいいと思います。

現代文の読解は基本的には「主観」で行うものです。
「客観」的に読むことはできません。
(この理由が分からない人は、主観と客観がテーマの文章を読みなおしましょう)

だから、課題文を読んでいるうちに、無自覚に主観的に解釈してしまいます。
主観的に自分の経験に置き換えて文章を解釈することは、
課題文の読解にはとてつもなく重要です。

なぜなら、本文に並べてある抽象的な言葉を、
自分の体験に置き換えて考えることこそが、
その文章の本質的な理解につながるからです。

でも、課題文にくっついている問題は、概して細かい解釈を聞いてきます。
課題文の概要を理解できていても、細かいことまで一読しただけでは覚えられないでしょう。
それが普通です。
だから、多少面倒でも、迷ったら課題文の該当箇所に戻って問題にあたるべきだと私は思います。
そしてその時に、課題文に引いた線や、ちょっとしたメモが生きてくると思います。
たまに、課題文が白紙のままの状態で解く人を目にしますが、それは非効率なやり方でしょう。
ものすごく整理能力があって、一読しただけで文章の内容が簡単に頭に入ってしまう人以外は、
考えた跡を問題用紙に残すことが、かえって時間の短縮につながるのではないかと思います。

あつしくん(仮名)は、課題文に戻って確認する時間が惜しいみたいです。
その気持ちは痛いほどわかりますが、時間をかけて満点をとれないものは、
時間を縮めたらもっと得点率が下がります

いまこの時期はまず、時間をかけても満点を取ることを目指すことが先決だと思います。

2014年6月5日木曜日

自分が無自覚にやっていることを自覚的に根拠をもって説明すること

今日のあつしくん(仮名)。
素晴らしかったなぁ。

何が素晴らしいって、読んだ文章の内容や、自分が選択肢を選んだ理由をしっかり論理的に相手に説明できるんですよね。

これってすごいこと。

国語って、なんとなくできるだろうって思っている人が多いし、
実際、なんとなくできちゃう人っていっぱいいるんだけど、
国語をなんとなくじゃなくて、論理的に解答根拠を説明できる人は強いと思う。

なぜなら、自分の選んだ解答を後から考えて論理的に説明できる人は、
その修正ができるから。

なんとなく選んだ人は自分が選んだ根拠がわからないから、
試験本番中に迷っちゃうし、根拠を選んだ理由が曖昧だから、
次に同じ問題が出てきたとしても、同じように迷う。
たまたま1回目は合っていても、2回目は外れちゃうみたいなことが起きる。

だけど、根拠を明確にしながら問題を解こうとする人は、
問題文中の中に根拠を探すから、問題文さえ読めていれば、
趣旨から大きく外れる事もない。
答えが間違っていた場合も、解いている時の根拠が明確だから、
「次はこう考えれば答えにたどり着ける」っていう道筋もわかるようになって
自分の思考回路の修正ができる。

自分の思考回路の修正ができるということは、
1回1回の問題を通して成長できるということ。

ぜひ意識してほしいと思う。

2014年6月4日水曜日

何事も「楽しむ」が吉


先日、とても嬉しいことがありました。

卒業生から「○○大学の○○学部の過去問題に取り組むのがとっても楽しかった!」
と感想をもらったからです。

勉強を様々な理由で、消極的に取り組んでいる間は、
それが生み出す効果は、少ないと思います。

「勉強を消極的に取り組む」とはたとえば、

・課題を出されたから取り組む
・「やりたくない」と思いながら取り組む
・「面倒くさい」と思いながら取り組む

などなど。


なぜ勉強を消極的に取り組むと効果が少ないのか。
それは、無自覚でも自覚的でも、誰かに「やらされている」勉強だからです。



自分はいまなぜ勉強しているのか?

多くの受験生が「行きたい大学に行くため」と答えるでしょう。

なら「行きたい大学に行くため」に、やりたくない勉強をいやいややるのではなく、
どうせやらなきゃいけなのなら「楽しんでやる工夫」のほうが大切だと思いませんか。

どうしたらいまやる勉強に楽しんで取り組めるか。
どんな風に取り組めば自分は「楽しい」と感じれるのか。

その答えは千差万別ですが、
「どうせやるなら楽しくやろう」と思うだけでも肩の力は抜けると思います。



勉強は、数式を解いたり、単語を覚えることを指すのではなく、
自分が知らない解法を知ったり、今よりも効率のいい解き方を学ぶことで
いまの自分を変えていくことだと思います。
自分を毎日変えていく覚悟と
それを楽しむ余裕が必要です。

今消極的に勉強に取り組んでいる人は、
もう一度自分の環境を見つめ直し、
いい方向に自分を変化できるように環境を整える必要があるのではないでしょうか。

何かを楽しんで取り組み、楽しみながらやってる間に
いつの間にかそれが力になっていること。
勉強を勉強と思わずにやっていること。
これが一番効果が出やすい状況なのではないかと思います。

2014年6月1日日曜日

仮面浪人の是非

仮面浪人。
―とりあえず大学には入ったものの、大学の環境に満足できず、
大学に進学しながら、受験勉強をすること
です。

最近、身近に増えている気がします。

仮面浪人をするかしないかって本当に難しいと思う。

どんな環境に行っても、その環境を生かすか殺すかは自分次第で、
そういう意味ではどこの大学に行ったって対して変わらない。
環境に期待をしすぎてはいけないよね。

とはいえ、10代後半から20代前半の、社会に出る前の大切な時期。
毎日過ごす環境から受ける影響は、少なくはない。


いくつになったって人生は変えられるけど、
年をとればとるほど、変化は怖くなる。

だから、自分のやりたいことがあるなら、
そしてそのやりたいことが今の場でできないなら、
挑戦する価値はあると思う。

自分の可能性は自分で決めているらしい。
「できない」と思った場合は、知らず知らずに
自分で「できない」ように動いていると聞いたことがある。

まずは、私自身、自分の可能性を自分でつぶさないようにしたいと思うし、
同様に、生徒の可能性も、つぶさないようにしたいと思う昼下がりです。